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Cafe de Panchito blog

西村秀人によるアルゼンチン、ウルグアイほかラテンアメリカ音楽について
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映画「ミロンゲーロス~ブエノスアイレス、黄金のリズム」が示すもの

「タンゴの歴史」という本を紐解くと、タンゴがダンス音楽として始まったことは書かれているが、その後のタンゴの発展については、音楽スタイルの変遷(テンポ、リズムの切り方、アレンジの手法など)を中心に描かれるのがふつうである。
 ダンスの変化についてはほとんどの場合、系統的に触れられることがない。1920年代からエル・カチャファス、カシミロ・アインなどの著名ダンサーが海外へのタンゴ・ダンス普及の功績者として言及されたり、1980年代以降、ブロードウェイ・ショウの「タンゴ・アルゼンチーノ」の大ヒットによってタンゴ・ダンス・ブームが世界的に起こったことは触れられるが、ブエノスアイレスの一般の人たちがどのような場で踊ってきたか、踊ってきたスタイルがどのように変化したか、ということはほぼ述べられていない。
Baile al aire libre S 881Charlo con su orquesta Belgrano 1

 でもそのことは仕方がない面もある。演奏や歌は楽譜やレコードといった記録に残るが、人々の踊るダンスそのものは残すすべがない。ダンスの技が残っているのはごくわずかな映画のシーンやテレビ放送の映像か、1980年代以降の家庭用のビデオしかない。しかもそうしたダンスの特徴や意味を、文章で記述することにも非常に困難がある。タンゴ・ダンスの教則本は存在するが、文化としてのタンゴ・ダンスには、そうした記述できる範囲を超えたものが多くあることは実践者には明らかだろう。
 この映画「ミロンゲーロス~ブエノスアイレス、黄金のリズム」には、およそ50~60年タンゴを踊り続けた人々=ミロンゲーロスが38人登場する。タンゴ・ダンスをするようになったきっかけも、学び方も、実際のダンスのスタイルも十人十色である。しかしその総体はタンゴ・ダンスの場で築き上げられてきた伝統とその変容、音楽との関係性、アイデンティティとの関連性などを浮き彫りにしている。いずれも書物に書かれた「タンゴの歴史」には表れない部分だ。
 タンゴのもう一つの歴史、真の大衆文化としての姿が「ミロンゲーロス」にある。
Jose-Luis-Ferraro-Rika.jpgMilongueros afiche SMilongueros Afiche A(修正版)

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【 2019/03/11 (Mon) 】 映画 | TB(-) | CM(-)

ららら♪クラシック タンゴの真実~その歴史からピアソラまで

2月15日(金)21:30~55の放送「ららら♪クラシック タンゴの真実~その歴史からピアソラまで」(Eテレ)ご覧いただきましたでしょうか? 30分番組なので、当初私の方で提案したり、撮影してあったものでもカットされてしまったものもあります。より深い理解の助けにもなろうかと思いますので、その点を少しまとめておきます。

 タンゴは1900年代後半から徐々に海外でも知られるようになり、特にヨーロッパにはたくさんのアルゼンチンの音楽が渡っていった。(この関連でビアンコ=バチーチャ楽団の「プレガリア」のSP盤をかけるシーンを撮影したが、カット。)1925年にはタンゴ王フランシスコ・カナロがパリ公演を成功させ、国際的に広くタンゴが知られる象徴的出来事になった(この関連でカナロ楽団の「パリのカナロ」のSP盤をかけるシーンを撮影したが、カット。)
 一方アルゼンチンではレコードの普及、歌のタンゴの隆盛などを背景に、タンゴは1920年代末に第一次黄金時代を迎え、当時最も進んだ音楽をやっていたのが、フリオ・デ・カロ。(彼の1928年のレコード「ボエド」 Boedoを説明しながら手持ちのSP盤からかけるところを撮影したが、使われず。)
Bianco-Bachicha Plegaria SPFrancisco Canaro Canaro en Paris SPJulio De Caro Boedo SP
さらに1940年代にタンゴは第2の黄金期を迎える。その当時から活躍していたメンバーということで、1974年に来日したカルロス・ガルシーアとタンゴオールスターズの映像「ラ・クンパルシータ」が登場。(デ・カロの話のところでも同じときの映像から「愛しき故郷」Tierra queridaの演奏シーンが登場、バイオリン・ソロは最後期のデ・カロ楽団にも参加していたエミリオ・ゴンサレス。)
DSC_1055 Era 1940DSC_1005 Tierra querida
番組ではこの後、映像があるものを優先したので、サルガン(キンテート・レアル)、ピアソラという流れになっていたが、番組でも使われていた巨匠たちの写真にある通り、本来ならフリオ・デ・カロ→エルビーノ・バルダーロ→アニバル・トロイロ そしてその後並列で オスバルド・プグリエーセ=オラシオ・サルガン=アストル・ピアソラ といきたかった。ここにマフィア、ラウレンス、アルフレド・ゴビなどあと数名加えるといわゆる「デ・カロ楽派」 Escuela decareanaの系図が出来上がる。
DSC_1002 Maestros
タンゴがダンスをする音楽であることを否定しない範囲で、自然な感情表現としてのテンポの変化・揺れを加え、楽器のソロを編曲に組み込んだ、という点がデ・カロ楽派の共通の革新性である。さらにトロイロは(特に初代ピアニスト、オルランド・ゴニの影響によって)低音に強烈なグルーヴ感・スウィング感を持たせ、プグリエーセは放送でも説明されていた「ジュンバ」と呼ばれるリズムを採用、楽器のソロやフレージングにも大きな特徴を持たせ、サルガンは複雑で多様なシンコペーションを組み込むことによって独特の躍動的なスタイルを生み出した、といった感じでそれぞれの個性が出来上がっていく。
ピアソラはトロイロのグルーヴィなリズムをさらに誇張したスタイルからスタートしたものの、次第にダンス出来る音楽であることをやめ、聞かせることに重点を置いたスタイルに変化していった。
一方オラシオ・サルガンは1958年にオルケスタを解散、翌59年からエレキギターのウバルド・デ・リオとのデュオで活動再開、ほどなくさらに3人を加えキンテート・レアルとなったが、楽器編成は翌年のピアソラ・キンテートと同じだった(バンドネオン、バイオリン、ピアノ、エレキギター、コントラバス)。
番組で使用されていたキンテート・レアルの映像は1964年にNHKの「夜のコンサート」に出演した時のもので、本来私の手元にあった16ミリフィルムを使う予定だったところ、何と今回故・大岩祥浩氏のもとに同じ内容の16ミリフィルムがあったことがわかり、より状態がよかったのでそちらが使用された。
DSC_1014 Quinteto Real
ピアソラの演奏シーンの映像はNHKのアーカイヴにあった映像で、1970年のブエノスアイレス取材番組からの映像。ピアソラの語りのみ使われていて、あとはミケランジェロのステージでの音声のない映像が少し登場していたが、実は他にピアノに向かって「白い自転車」の譜面を書いているシーンもあったし、場所不明の屋外でキンテートをバックにフェレールが「白い自転車」を語っている映像+音声のシーンもあった。
DSC_1017 Michelangelo 
30分という制約を鑑みれば、エッセンスはうまく伝わったのではないかと思うし、何より小松亮太キンテートによる演奏と特殊奏法の説明はより一層タンゴの魅力を伝えていると思う。
今回使われなかった昔の巨匠たちの映像はこれからもアーカイヴとして残るわけで、何かの機会にまた陽の目を見ることを期待したい。
番組の再放送は2月21日(木)10:25~10:55なので、見逃した方はぜひチェックを。
再放送の予定
【 2019/02/17 (Sun) 】 テレビ番組 | TB(-) | CM(-)

アルゼンチン・タンゴとハーモニカのこと(2) ウーゴ・ディアスの後継者たち

ウーゴ・ディアスが作り上げた個性的なハーモニカによるフォルクローレ&タンゴ演奏のスタイルはその後のハーモニカ奏者の手本となった。
 世代的に一番年上はルイス・サルトス Luis Saltosだろう。1963年からヒット作「ミスター・トロンボーン」のレコーディングに参加(トロンボーンとハーモニカを中心としたイージーリスニング)、その後ソロ奏者として多くのレコードを制作してきた。ウーゴ・ディアス同様フォルクローレとタンゴのレパ―トリーが半々ぐらいで、(アルゼンチンのミュージシャンには時々あるパターンなのだが)副業として床屋も営んでいた。ここ10年ほどはあまり活躍の話を聞かなくなったが...
https://www.youtube.com/watch?v=UjrRE3ENUOo
(ウーゴの娘で歌手のマビ・ディアス、ドミンゴ・クーラ、モノ・ぺレイラという豪華メンバーとの共演)
https://www.youtube.com/watch?v=d1uPaAyW-Y0
(1998年コスキン祭での「ウーゴ・ディアスへのトリビュート」、タンゴを演奏している)

その次に来るのがパコ・ガリード Paco Garridoだろう。彼は現在も活躍を続けており、ルイス・サルトスに比べるとタンゴよりフォルクローレに傾倒しており、演奏スタイルもよりウーゴ・ディアスに近い。
https://www.youtube.com/watch?v=NEcOveG7ZRk
https://www.youtube.com/watch?v=L2VrUEeLk2I
(いずれも2015年のニューアルバムのプロモーションビデオ)

現在最も幅広く活躍している若手がフランコ・ルシアーニ Franco Luciani。1981年ロサリオ生まれの36歳で、2002年に参加したコスキン祭で器楽演奏家の新人賞を受賞、海外公演も多数行っている。現在までデュオからクアルテートまで様々な自己のグループで、タンゴ、フォルクローレ、ジャズと幅広く10枚近いアルバムを制作しており、歌手や演奏家のアルバムへのゲスト参加も数多い。
https://www.youtube.com/watch?v=Y9oQavA6ayE
(2008年のコスキン祭でマビ・ディアスとの共演、曲はウーゴ・ディアスの代表作「天使のサンバ」)
https://www.youtube.com/watch?v=MQsi-dVAISU
(近年のプロモ映像)

そして今回5月に東海地区で公演を行うジョー・パワーズ Joe Powers。2005年にドイツで行われた世界チャンピオンシップで優勝、その年に「ワールド・オブ・ソングス」という世界の名曲集のアルバムをルイス・チャイルズとの共同名義で発売。ソロとしては2007年にブエノスアイレスで録音した「アモール・デ・タンゴ」が最初のアルバムとなる。これはニコラス・レデスマ(ピアノ)、ラウル・ルッツイ(ギター)、オラシオ・カバルコス(コントラバス)というすごいメンバーをしたがえたアルバムだ。その後鈴木ハーモニカを愛用していることもあり、たびたび来日するようになり、ニコラス・レデスマの高弟でもある青木菜穂子(ピアノ)との共演も2008年から始まり、2015年にはデュオのアルバム「Jacaranda en flor」を発表している。アメリカ人でありながらアルゼンチン・タンゴをこよなく愛しているハーモニカ奏者だ。
https://www.youtube.com/watch?v=pzUm5JgNlvk
(日本で谷口楽器によった際に「ロス・マレアドス」をソロで演奏している映像)
https://www.youtube.com/watch?v=3D_wAoEu8ZM
(青木菜穂子とのデュオによるタンゴ「ミ・ドロール」)

この他にもカタラ=ネグリ=ウルバーノ・トリオ(ハーモニカはハビエル・カタラ、彼はフルート奏者でもある)、タニーノ・ドゥオ&トリオ(ハーモニカはサンティアゴ・アルバレス)などのグループも活躍している。
https://www.youtube.com/watch?v=3ylQOCTZTCU
(タニーノ・ドゥオのタンゴ「最後の酔い」)
【 2018/04/17 (Tue) 】 雑記 | TB(-) | CM(-)

アルゼンチン・タンゴとハーモニカのこと(1) 巨匠ウーゴ・ディアス

 ここしばらくよく日本を訪れているクロマチック・ハーモニカ奏者にジョー・パワーズ Joe Powersがいる。彼はアメリカ人で、もちろんジャズやブルース、クラシックなどの演奏にもその手腕を発揮するが、何よりアルゼンチン・タンゴやフォルクローレに特別な愛情を持って演奏している。今回4月末~5月初頭に来日し、ピアノの青木菜穂子とのツアーがあるようなので、あらためてタンゴとハーモニカのことをまとめておこう。

 ジョーがタンゴの演奏に特別力を入れ、足しげくアルゼンチンを訪れているのは、アルゼンチンのハーモニカの巨人、ウーゴ・ディアスの存在が少なからず影響しているのだと思う。

 ウーゴ・ディアス Victor Hugo Diazは、1927年、アルゼンチンのフォルクローレの郷、サンティアゴ・デル・エステーロ州に生まれた。5歳の時、サッカーボールが目を直撃したことで視力を失ってしまうが、その入院中手にしたハーモニカを巧みに演奏するようになる。その頃のアルゼンチンではハーモニカはまだ一般的な楽器として認められていなかったが、ウーゴが入院した当時シャルルCharlesというフランス風の名前の演奏家が率いるハーモニカ合奏団がアルゼンチンのラジオやレコードで活躍しており、少年ウーゴはその演奏にあこがれ、父に楽器を買ってくれるようにねだったのだという。
 その後、少し視力を回復したウーゴはすぐにプロとして演奏を始める。折しも地方ラジオ局が出来始めた頃で、ハーモニカの天才少年の演奏は初期のラジオ番組にはうってつけの話題だった。のちに義理の兄弟になる同郷のパーカッション奏者ドミンゴ・クーラと出会ったのもその頃だ(ドミンゴ・クーラはウーゴ・ディアスの妹で歌手のビクトリアと結婚した)。
 1944年、17歳の時に初めてブエノスアイレスで公演、2年後には本格的にブエノスアイレスに拠点を移し、1949年から自己のグループ「ウーゴ・ディアスとそのチャンゴス(悪ガキたち)」というグループを盟友ドミンゴ・クーラ、妹ビクトリア・ディアスらと結成、ラジオに出演し始める。ウーゴの驚異的なテクニックと、野性味あふれる独特の音色は大きな反響を呼び、1950年、最初のレコードをTKレーベルに録音、曲目はアルパの独奏曲として知られる「鐘つき鳥」(Pajaro campana)をハーモニカで見事に演奏してみせたものだった。
 1953年には欧州公演にも出かけ、ベルギーでハーモニカの伝説的名手ラリー・アドラー、ジャズハーモニカの先駆者トゥーツ・シールマンスと出会い、その演奏を称えられたという。ハーモニカという楽器の特異さが功を奏したこともあるが、ウーゴ・ディアスはフォルクローレの演奏家の中で、ヨーロッパで公演を行った先駆的存在となった。
ウーゴ・ディアスのレコードはTK(1950年代)、PAMPA(1953年頃)、Disc Jockey(1960年頃)、RCA(1960年代~1971年)、Tonodisc(1972~1975年)に残されている。一部をのぞきこの時期の録音は長らくSP/LPで発売されたまま、復刻されることもなかったが、2001年からアルゼンチンのAcqua Recordsで1971年までの全録音を2枚組×全5巻で復刻するシリーズがスタート、日本でも私が日本語解説を書いて日本盤として配給された(全5巻のうち、結局第3巻は本国でも発売されずに終わってしまい、日本では第4巻と第5巻のみまだ在庫があるようだ。)
http://www.ahora-tyo.com/artist/artist.php?anm=HUGO+DIAZ

 1960年代に入るとテレビ番組にもよく出演し、この点でも先駆者であったという。
 1972年、トノディスクというレーベルに録音を開始する。ここまで録音してきたのはほとんどがフォルクローレだったが、トノディスクの第1弾のアルバムは初めてのタンゴ集だった。それまでもステージではタンゴを演奏してきたようだが、録音はこの1972年のアルバム「ブエノスアイレスのウーゴ・ディアス」が初めてだったのである。名手ホセ・コランジェロをバックにしたがえ、唯一無二の個性的なスタイルで演奏されたタンゴ集は、ほどなく日本でも発売され、好評を得て、都合3枚制作のタンゴ集がされた。この時の3枚の録音はアルゼンチンではあまり復刻されていないが、日本では2枚組CDとして斎藤充正氏の監修でビクターからまとめて発売されたことがある。
http://www.jvcmusic.co.jp/-/Discography/A006515/VICP-60902.html
それと並行して同レーベルでフォルクローレのアルバムも3枚制作され、そちらは2003年に私・西村の企画・監修・解説によりビクターから2枚組CDにまとめて発売された。
http://www.jvcmusic.co.jp/-/Discography/A006515/VICP-62181.html

そして1975年、カルロス・ガルデル没後40周年を記念したガルデル名曲集を録音(この1枚だけはアルゼンチンでたびたびCD化されている)、その後ジャズ・スタンダード集を録音(アルゼンチンで一度だけCD化されたが、日本にはほとんど輸入されなかった)、それが最後のアルバムとなってしまった。
享年50歳。ウーゴ・ディアスはフォルクローレ界でも有数の酒飲みで、1970年代のアルバムの録音時にしらふだったことはほとんどなかったらしい。晩年のレコーディングに荒い息遣いが入っているのはそのせいである。

ウーゴ・ディアスのスタイルは一世一代の個性的なものだったが、その素晴らしさ故多くの追随者を生んだ。
【 2018/04/17 (Tue) 】 雑記 | TB(-) | CM(-)

カルロス・アギーレ La música del agua 2018日本ツアーのレパートリーから(2)

カルロス・アギーレ La música del agua 2018日本ツアーのレパートリーから
(2)アルフレド・シタローサの作品 「エル・ロコ・アントニオ」「ベーチョのバイオリン」

De los repertorios del Tour japonés 2018 de Carlos Aguirre “La música del agua”
(2)”El loco Antonio” y “El violín de Becho” de Alfredo Zitarrosa

作者のアルフレド・シタローサは、前回紹介したアニバル・サンパージョと同じくウルグアイ人。1936年モンテビデオ生まれで、独学でギターをマスター、7歳の時に地元のラジオで弾き語りをしてデビューしている。歌手・ギター奏者の他、アナウンサー、ジャーナリストとしても活動していた時期があり、1958年に出版した詩集はモンテビデオで賞を受賞している。1961年、TVのジャーナリストとしてペルーに行った際に、正式に歌手としてプロデビューを果たす。1966年、ウルグアイでデビューレコード「ある娘のためのミロンガ」Milonga para una niñaが大ヒット、翌年からはアルゼンチンでも録音を開始。しかしウルグアイ軍政下で放送禁止措置を受け、1976年アルゼンチンへ亡命、そこからさらにスペインに亡命した。しかしそこでも軍事政権から任命されたウルグアイ大使と対立、さらにメキシコへ拠点を移す。1983年アルゼンチンでリサイタルを開催、翌年ウルグアイへ帰国。しかし亡命生活の疲れと、帰国した祖国への失望から体を病み、1989年、52歳で死去。本人の意思でしかるべき治療をせずに亡くなったので、一種の自殺だったとも考えられている。
独特の鼻にかかった歌声とウルグアイ人独特のなまりと語り口は、ウルグアイ・フォルクローレのシンボルであり、フォルクローレと都会をつなぐ存在でもある。また数々の作品により、後世のアーティストに多大な影響をも与えている。
Alfredo Zitarrosa EL loco antonio CD 1
”El loco Antonio”(エル・ロコ・アントニオ)は、アルフレド・シタローサの知り合いで実在の人物に取材した作品。本人はこの曲で「ロコ」と呼ばれたことで怒っていたそうだ。

「エル・ロコ・アントニオ」
おまえが思っているミロンガ
それこそがおまえが語ろうとしていること
悲しみとともに俺のところに来るんじゃない
だから俺はもう考えないんだ
おまえは俺が彼女を愛していたという
おまえがそんなにおしゃべりだなんて
サンタ・ルシアのことでも話してろ
21年も前の話だ
やぶの上にかかった鉄橋
水はどこへ行くでもなく、海のように
月はやつを捨て
ぬかるみを水浸しにする

ロコのアントニオはことさら愛していた
木でできたオールとはしけを
水位が下がるとやつが見えてくる
思いにふけりタバコを吸わせてやれ
橋を横切ると、ミロンガよ
泉のわきでサギたちが不満げに鳴く
そんな場所があることを思い出せ
考えてもみろ
あの頃おまえは思い出したがっていた
もうサンタ・ルシアがあったことを
その橋も、その運河も


もう1曲「ベーチョのバイオリン」El violín de Bechoはあまり「水」に関係した曲ではないが、やはり実在の人物に取材した曲。ベーチョとは、シタローサの親しい友人でクラシックの名バイオリニストでもあったベーチョことカルロス・フリオ・エイスメンディ(1932-1985)のこと。よくシタローサの家や練習場所にやってきてはミロンガのリズムで即興を楽しんでいたという。シタローサの死後に発売された未発表録音の中に、シタローサ所有のポータブル・テープレコーダーで録音されたベーチョとのセッションが数曲残されている(それ以外にはベーチョがオラシオというギタリストの伴奏でタンゴを演奏したEP盤がある)。その後ベーチョはベネズエラのマラカイボ交響楽団やボリビアのラ・パス交響楽団に所属、ヨーロッパでもミュンヘンやバルセローナで演奏した。

この「ベーチョのバイオリン」は彼がバイオリンを弾き始めた頃の少年としての苦悩がテーマになっている。歌と歌の途中に入る独特のメロディーは、ベーチョがシタローサとのセッションでよく使ったフレーズだそうだ。なお、ベーチョのお母さんは、軍事政権下で曲を禁止されたアーティスト(シタローサ)にゆかりのある人物の母親、というだけで軍事政権時代に自分の創設した学校で教えることを禁じられたという。

「ベーチョ」も「エル・ロコ」も本人は何度か録音しているが、ソンドールへの録音がベスト盤に収録されており、また1973年にアルゼンチンのミクロフォンで録音したアルバム(かなり以前に日本でもLPで出た)にも収録されている。後者ではフェルナンド・スアレス・パスなどアルゼンチンの名バイオリニストたちがバックをつとめている。「ベーチョ」はメルセデス・ソーサの演唱も定評ある名唱。
Alfredo Zitarrosa El loco antonio Becho CD 1
「ベーチョのバイオリン」

ベーチョはオーケストラでバイオリンを弾く
まるで先生がいなくなった子供のような顔をして
オーケストラは彼の役には立たない
彼にあるのは彼を苦しめるバイオリンだけ

バイオリンがベーチョを苦しめるから
彼の恋心も同じだけどね、少年たちよ
ベーチョは苦悩や愛に名前をつけない
人間のようなバイオリンを欲しがっている

ベーチョは愛してもいないバイオリンを持つ
でも彼はバイオリンが自分を呼んでいると感じる
夜になるとまるで後悔したかのように
その悲しい響きを再び愛する

木で出来た栗色の蝶々
絶望する小さなバイオリン
ベーチョがそれを弾かずに黙らせている時
バイオリンは彼の心の中で響き続けている

生と死、バイオリン、父と母
バイオリンは歌い、ベーチョはメロディーとなる
もうオーケストラでは演奏しない
そこで愛し、歌うのは骨が折れるから
【 2018/03/05 (Mon) 】 Carlos Aguirre | TB(-) | CM(-)
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