Cafe de Panchito blog

西村秀人によるアルゼンチン、ウルグアイほかラテンアメリカ音楽について
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モサリー二10年ぶりの来日に寄せて

久々に来日するファン・ホセ・モサリーニの足跡

 いよいよ今月、バンドネオンの巨人、ファン・ホセ・モサリーニの10年ぶりの来日公演がスタートする。かつては毎年のように来日していた時期もあり、インタビューや特集記事なども多数あったのだが、現在簡単に入手できないものもあり、今回公演前にモサリーニの音楽や人となりを知っていただければと思い、ここに簡単にまとめておく。

 ファン・ホセ・モサリーニは1943年11月29日ブエノスアイレス郊外のホセ・カルロス・パスに生まれた(1944年となっている資料もあるが、正しいのは1943年のようだ)。同じ1943年生まれのタンゴ・アーティストにはウーゴ・マルセル(歌手、オスバルド・ピーロ指揮国立フアン・デ・ディオス・フィリベルト楽団で来日経験あり)、カルロス・ロッシ(歌手、ホセ・バッソ楽団で1970年に来日)、セサル・ストロシオ(クアルテート・セドロンのバンドネオン奏者、40年前からフランス在住)、エクトル・マリオ・アルセ(カルロス・ガルシーア楽団との来日でおなじみのバイオリン奏者)などがいる。
フアン・ホセ・モサリーニのお父さんはバンドネオンとアコーディオンを趣味で演奏していて、9歳から本格的にファン・ホセにバンドネオンを教え始めた。13歳頃から地元の楽団で演奏を始める。当時は1950年代半ばということになるわけだが、まだ楽団がたくさんあって、タンゴのダンスパーティもよく行われていた時代であり、それぐらいの年齢から半プロの活動を始めるアーティストもまだ多かった頃だ(この後の世代はそういう機会が持てなくなる)。1961年、17歳の時にテレビのコンクール番組で優勝、テレビ局の専属楽団で1年間演奏、そのまま本格的なプロ活動に入る。2011年に発売されたCD「ブエナスノーチェス、チェ・バンドネオン」(ACQUA AQ295)の中にボーナストラックとしてこの時期(1961年)にアセテート盤に録音されたバンドネオン・ソロ演奏7曲が復刻されている。音質は悪いが、7曲中5曲が有名なレオポルド・フェデリコの独奏用編曲で、17歳の時点で実に立派に弾きこなしているのがわかる(残り2曲は古典タンゴ「エル・シルーハ」とカリスト・サジャーゴ編曲の「場末のバンドネオン」)。
Buenas noches che bandoneon 179

 その後はホルヘ・ドラゴーネ楽団、リカルド・タントゥリ楽団などに参加していたというが、1960年代に入るとオルケスタ・ティピカがレギュラーで活躍できる時代ではなくなりつつあり、随時いろんな楽団に参加する他ない状況だったのだろう。1963年から改めてエルネスト・バッファに師事、65年にレオポルド・フェデリコ楽団に参加する。フリオ・ソーサの伴奏楽団をつとめていたフェデリコ楽団がソーサの64年の急死によって、はからずも独立することになったまさにその時に参加していたことになる。しかし楽団は長続きせず66年に解散、フアン・ホセ・モサリーニはホセ・バッソ楽団、オラシオ・サルガン楽団に参加しつつスタジオやテレビ局の仕事を続けていく。
 大きな転機となるのは1969年。セステート・タンゴとしても活動していたフリアン・プラサ、オスバルド・ルジェーロ、ビクトル・ラバジェン、オスカル・エレーロ、エミリオ・バルカルセ、アルシデス・ロッシという6名の主要メンバーがオスバルド・プグリエーセ楽団から脱退、プグリエーセは新楽団結成のため新たなメンバーを入れるが、そこにモサリーニは選ばれたのである。それまで参加した楽団は名門だが、レオポルド・フェデリコ楽団の1年間をのぞけばすでにレギュラーとしての活動は困難な状況であった。しかしプグリエーセ楽団は1969年の時点でもレギュラー活動をまだ続けている楽団であり、その点が大きく異なる。同時期に入団した同僚がダニエル・ビネリ(1946年生まれ、当時23歳)、ロドルフォ・メデーロス(1940年生まれ、当時29歳)で、モサリーニを含めたこの3人はのちにピアソラに次ぐ世代の音楽家として「ゼロ世代」(Generación Cero)と呼ばれることになる。
 以前ビネリが言ったのを私が聞いたのだと思うが、当時でもプグリエーセ楽団の練習は厳しく細かく、新曲だと1日に数小節しか進まないこともあったという。練習中にも編曲に手を入れ、相当練り上げてからステージにかけ、それからようやく録音、という手間のかかるプロセスは1950年代半ばまでは毎晩演奏場所があった楽団なら出来たことだが、1960年代末でもそのやり方を維持していたのはプグリエーセ楽団だけだったと言ってよい。そこでの経験はモサリーニにとって非常に重要なものだっただろう。プグリエーセ楽団在団時は以下の4枚のアルバムに参加している。
①Philips 82194 “La biandunga” (1968年11月~1969年8月録音)
②Philips 82229 “Sentimental y canyengue” (1969年9月~1970年7月録音)
③Odeon 6897 “El andariego”(1972年4月~1972年12月録音)
④Odeon 6210 “Noches de San Telmo”(1972年12月~1976年4月録音)

これらはすべて当時日本盤として発売されていた。
①フィリップス SFX-7230 「ラ・ビアンドゥンガ/オスバルド・プグリエーセ復活」
②フィリップス SFX-7303 「情熱と憂鬱/オスバルド・プグリエーセ」
③東芝 EOP-80927「プグリエーセの輝かしい音の世界」
④東芝 EOS-81178「サンテルモの夜/オスバルド・プグリエーセ」

フィリップスの2枚はアルゼンチンでオリジナル・ジャケットで復刻されているが、オデオンの2枚はアルバムの形では復刻されていないのが残念(収録曲は何らかの形でCD化されているが)。当時すでにビネリとメデーロスは編曲を提供しているが、モサリーニが編曲者として明記されているものは見当たらない。まだ編曲は勉強中だったということだろうか。
プグリエーセ楽団での活動は続けつつ、1970年に同僚のビネリにジャズ畑でも活躍するメンバーを加え「キンテート・グアルディア・ヌエバ」を結成、1975年まで随時活動、その間1972年に1枚だけアルバムを残した。
*Fermata SLF-212 “Quinteto Guardia Nueva”
バンドネオン2、エレキギター、エレキベース、ドラムという変わった編成で、古い名曲のアレンジを中心に独自のサウンドを追及した。オーソドックスな手法から離れようとするあまり、未完成な感じが残したアルバムだが(ひょっとすると古い曲を中心にしたレパートリーが多いのは本人たちの希望ではなく、プロデューサーの意図だったかもしれない)、今聞くと時代の流れを感じる興味深いアルバムである。残念ながらまったく未復刻。これらと並行してピアソラ・グループのピアニストでもあったオスバルド・マンシのグループに参加、素晴らしいグループだったようだが、演奏の機会も少なく、録音を残すことはなかった。
 1973年からはプグリエーセ楽団の同僚ロドルフォ・メデーロス率いるグループ「ゼロ世代」(バンドネオン3、サックス&フルート、ベース、ドラムス)に参加、翌年に1枚のアルバムを録音。(ただし実際に発売されたのは2年後だった)
 1974年にはアストル・ピアソラに請われて、テレビ番組とコリセオ劇場で「リベルタンゴ」(バンドネオン四重奏バージョン)演奏のため共演。1976年にはロックバンド「アラス」のリサイタルにメデーロス、ビネリと共に参加、他にもロック系アーティストとの共演も増える。1976年歌手スサーナ・リナルディのブラジル、フランス公演に参加し、初めてフランスの地を踏む。帰国後、1977年2月にプグリエーセ楽団を退団、同年4月1日パリに出発する。
 この時代アルゼンチンは激動の時期を迎えていた。1960年代後半の軍部による政権運営がうまくいかず、1973年の選挙でペロン党のカンポラが大統領に当選するが、左傾化した政策にペロン党内部から反発があり辞任、結局再度の選挙で亡命先から帰国したペロンが大統領に返り咲くことになる。しかし1974年7月1日にペロンが心臓発作で急逝、妻で副大統領のイサベル・ペロンが大統領となる(これが世界初の女性大統領だった)。しかしまもなく統治能力の無さが露呈し、右派と左派のテロが激化、1976年3月、クーデターにより政権崩壊、1982年までの軍事独裁政権時代に突入していく。モサリーニがアルゼンチンを去ったのはまさにこの軍事独裁政権によって反体制派の高圧的な取り締まりが行われ、多数の行方不明者を出した最悪の時期にあたる。
 おそらくパリ出発直前だったのではないかと思われるが、日本からの注文で制作されたオスバルド・レケーナのタンゴ名曲集「カミニート/ロス・レジェス・デル・タンゴ」に参加している。演奏はクアルテートで、曲によりフアン・カルロス・ベラとフアン・ホセ・モサリーニが弾いている曲があるが、かなり古典的なスタイルなのでどの曲をモサリーニが担当したのかは判別できない。なお、CD化された際に”はTango Session”名義に変更され、メンバーも明記されていないのでご注意を。
 パリへ着くと、すでにヨーロッパに活動拠点を移していたアストル・ピアソラ(ピアソラはペロンが亡くなる3か月前に、自己の体調と全体主義への嫌悪から一足先にヨーロッパへ移動していた)と少し共演したようだ。自己のグループを作るのは1977年「ティエンポ・アルヘンティーノ」で、翌年唯一のアルバム「タンゴ・ロホ」を発表している。グスタボ・ベイテルマン(ピアノ)、エンソ・ヒエコ(フルート)、トマス・グビッチ(ギター)などその後長く共演することになるパリ在住のアルゼンチン人がメンバーになっており、やはり76年にパリに亡命していたアルゼンチン人歌手のネストル・ガベッタも参加している。ベイテルマンはつい先日東京で行われた北村聡(バンドネオン)のソロ・コンサートに委嘱作品を提供し、初演されたばかりだ。このアルバムはすべてモサリーニかベイテルマンの作品で、キンテート・グアルディア・ヌエバ~ゼロ世代で試みてきた方向性の一つの結論が出ているといえる。でも残念ながら未CD化。
 1978年からバンドネオン・ソロ演奏のリサイタルを多数行うようになり、79年に完全独奏アルバム「ドン・バンドネオン」を発表。きしくもレオポルド・フェデリコが自己の編曲を演奏した独奏アルバムを日本サイドの注文で録音したのも同じ年である。このバンドネオン独奏アルバムは、それまでほとんど実験的試みしかなかったバンドネオン独奏の録音に、アルバム丸ごとを独奏で通した画期的な名盤だった。だいぶ前だがCD化されているので、まだ未聴の方は是非探していただきたい。
 *Hexagone(France) 193762 “Don Bandoneón”
Don Bandoneon180

同じく1979年にクアルテート・カンジェンゲを結成、モサリーニ以外はフランス人であった。私はオムニバスに収録された2曲しか聞いたことがないが、後年の音楽性により近づいたと言えそうだ。その後はパリに亡命・来訪してきた南米のアーティストとの共演が多くなり、フォルクローレ系のメルセデス・ソーサ、イサベル・パラ、キラパジュンなどとも共演している。1981年、亡命アルゼンチン人の共同出資でタンゲリーア「トロトワール・ド・ブエノスアイレス」が開店、アルゼンチンから招いたアーティストの他、モサリーニ、エクトル・グラネなど在仏組がレギュラー出演した。
1982年には、モサリーニとグスタボ・ベイテルマンに、イタリア人ベーシストのパトリセ・カラティーニを加えたトリオが活動を開始する。1983年に発表されたトリオのファースト・アルバム「ラ・ボルドーナ」は、私にとってピアソラ以降のタンゴの未来を提示したと確信した衝撃のアルバムだった。原曲は巧みに解体・再構成され、3人の自由な弾きっぷりと、それをよくとらえた良好で迫力ある録音はパリでなければ実現しなかったのではないかと思う。このトリオは86年に「イマヘネス」、89年に「ビオレント」を発表している。(あと、1991年にクラシックのトランペット奏者ティエリー・カインズとトリオが共演した異色の大傑作もある)。いずれも内容の濃いアルバムで、アルゼンチン盤、フランス盤などで発売され続けているので、もし未聴の方には強力にお勧めする。ただ、何があったかわからないが、この後、モサリーニとベイテルマンはほとんど共演していない。同じ歌手のアルバムにそれぞれ別トラックで参加したり、ベイテルマンの作品集にモサリーニが参加したりはしているが、2人で一緒に演奏することはほとんどなくなったようだ。このトリオの復活がないのはとても残念である。
①旧日本盤 Canyon D32R0050 「パリ、タンゴの復活」(原盤タイトル ”La bordona”)
②Harmonia Mundi(Label Bleu) LBLC6507 “Imagenes”
③Harmonia Mundi(Label Bleu) LBLC6526 “Violento”
④COMO Classic COM392010 “Cuadros” THIERRY CAENS
La bordona 181
Imagenes 182
Violento 183
Tierry Caens 184


1988年から、音楽学校でバンドネオンを教え始める。1992年からは生徒を中心にオルケスタ・ティピカを結成し、より伝統的なタンゴ演奏の指導にも携わるようになる。1994年にはオルケスタ・ティピカ編成のアルバムも制作。プグリエーセだけではなく、トロイロ、フェデリコ、ピアソラなど現代のオルケスタのスタイルを演奏している。同年フアン・ホセ・モサリーニ=アントニオ・アグリ五重奏団として初来日、ミュゼットのグループと半分づつのステージで雰囲気の差異が異様だったが、この時ピアソラの楽曲を中心に演奏したキンテートの緊張感と充実感は他では得られないものだった。この公演を最前列で見ることが出来た私は本当にラッキーだったと思う。
翌1995年11月、同じキンテートで単独来日公演が行われる。さらに1996年11月にも来日、1997年7月ピアソラへのトリビュート・コンサート・シリーズ「オルタナティヴ・ピアソラ」でも来日。確か96年の来日の時だったのではないかと思うが、モサリーニ=アグリ両人と丸1日インタビュー取材の通訳として付き添う機会があった。折しもギドン・クレーメルのピアソラ集が発売され、ピアソラ作品が大いに話題になっていた時だった。インタビューでも当然その話が出て、アグリは「クレーメルのような偉大なクラシックの演奏家がピアソラの作品を演奏してくれることは大変名誉なことです」と述べていたが、インタビュアーが帰った後、アグリは私に「聞いたらわかるよな? クレーメルにはもうちょっとタンゴを勉強してほしいよ、まったく...」と述べていたのが忘れられない(あと、スペインの名テノール、プラシド・ドミンゴのタンゴ集にもアグリは伴奏で参加しているのだが、「あんな数時間の録音でまともなものが作れるわけがない」と憤慨していた)。モサリーニ=アグリのキンテートのアルバムは以下がある。
①クレプスキュール・オ・ジャポン CAC-0018 「ベスト・オブ・フアン・ホセ・モサリーニ」(組曲「水辺の男」のみキンテート、他はソロ、デュオ、トリオ)
②クレプスキュール・オ・ジャポン CAC-0028 「エンクエントロ」
Mosalini Agri 185

この時のアグリとモサリーニのキャラクターは実に対照的で、楽屋に入るとモサリーニはすぐに練習帳を開き、バンドネオンの練習曲をただひたすら演奏し運指の練習をしている。一方アグリはバイオリンを取り出して、レパートリーとは関係ない曲を弾きながら「こんな曲知っているか? いい曲だよな」などといって半分我々と遊んでいる(弾いていた中に「チンゴロ鳥はもう鳴かない」があってびっくりしたが、おそらくアグリは当時キンテート・レアルに参加していて、その関係でフランチーニの録音をたくさん聞いていたのだろう。他にもフランチーニのことをたくさん話していたのが思い出される)。モサリーニはまじめであまりジョークも言わない。フランス社会の中できちっとやっていく中で変化していったのかもしれないが、教育者にはぴったりの性格だと思う。天衣無縫なベテラン、アグリとのコンビは実によく出来ていた。その時アグリはパリに移住すると言って、やる気満々だったが、結局その話は実現せず、1998年に世を去ってしまった。1999年のモサリーニ=アグリ五重奏団の公演では、息子のパブロ・アグリが代役を務めた。その後ややあった、2002年と2004年にもパブロ・アグリとのコンビによる五重奏団で来日公演を行ったが、この最後の2回は私は見る機会がなかったように思うが、ピアソラ作品の演奏よりもモサリーニやギターのレオナルド・サンチェスのオリジナル作品の演奏の方が高く評価されていたように思う。
これらの活動と並行しつつ、その後もモサリーニは様々な形でアルバムを発表してきた。レオナルド・サンチェスとクラシック系アンサンブルとの共演で、現代タンゴの名曲とオリジナルを演奏した「コンシエルトス・パラ・バンドネオン・イ・ギターラ」、オルケスタ・ティピカ編成による3枚「ボルドネオ・イ・ノベシネエントス」「シウダー・トリステ」「ライヴ・タンゴ」など素晴らしいものだった。
Bordeon y 900 186

 しかし来日は2004年以来10年間とだえていた(何よりそれまで7回彼を招へいしてきた日本の会社が消滅してしまったのが大きな原因だと思うが)。今回がこれまでと大きく違うのは、日本のミュージシャンとの共演である点だ。楽器編成はこれまでと同じキンテート編成で、ピアノはフランスでモサリーニに師事しているという久保田美希、以下は小松亮太グループの主要メンバーで、バイオリンは近藤久美子、ギターは鬼怒無月、コントラバスは田中伸司。10年を経て、モサリーニがどんな音楽を聞かせてくれるのか、チラシに載っているレパートリーはピアソラの「アルフレド・ゴビの肖像」などだが、ピアソラ作品の「正統」な演奏はもちろん、オリジナル作品にもぜひ期待したい。おそらくバンドネオン・ソロも聴けるのではないだろうか。おそらくモサリーニを今回初めて聞く人も多いことと思うが、ぜひこの機会を逃さないでいただきたい。
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